ゆりりんのブログ

鬼滅の刃「童磨」考察、つれづれなるままに。

童磨戦決着の日に寄せて

今日6月24日は、2019年に週刊少年ジャンプ誌上で童磨との戦いに決着がついた日ですね。

いつもは過去のTwitterの呟きを取り上げて記事を書いていますが、

今日は童磨としのぶとの戦いについて、ちょっと思っていることを書きます。

 

 

童磨戦、しのぶをフェミニズムの体現者のようにいう人もいるけれど、そうかなぁ?と疑問に思う。

ただ童磨を「憎たらしい女の敵」としたいのなら、どうして「感情がないけれど、知りたいと興味を持っている」「子供のような恋愛ごっこをしていた」などと「事情がある」設定をつけたのでしょう。

憎い敵を倒して「ざまあ」するだけの爽快な復讐劇にしたいのだったら、

単に「女の苦しむ姿を見ながら殺して食べるのが好きな変質的サディスト」という設定にでもしたら良いものを、童磨は(何しろ感情がないので)楽しむどころか「美味しくて強くなるから女の肉を食べている」という極シンプルなもの。

そしてしのぶも「死んだかと思われていたが毒が効いたあとに童磨の体を突き破り、無事生還!」という展開ではなく、自分の命と引き換えに相討ち、という形で決着がついた。もう彼女の命は戻ってこない。

単純に「ざまあ」したいのだったら童磨を徹底的に悪逆で欲のために女を貪り楽しむ存在にすればいいのに、なぜそうしなかったのか。
そして毒が効き苦しみ悪態をつきまくる童磨を生還したしのぶが見下ろし「とっととくたばれ、糞野郎」といい放ち、カナヲ、伊之助と三人で童磨の首に刃を入れて「ザン!」と斬る。
…「スカッ!」とさせるのが目的ならそんな展開でもいいはず。

なにより童磨に、知りたかった恋の感情なんて味わわせないでしょう。

(まあ感情を持たせた上で拒否させるのがそのまま罰になっているわけですが)

 

単純に「男の敗北、女の勝利の物語」とするには童磨戦には違和感がある、と思うわけです。